謎多き大寺 ~川原寺~
川原寺は『飛鳥四大寺』に数えられるほどの大きなスケールと国家事業としての写経が我が国で始めて行われたほどのお寺であるにも関わらず、その創建の理由、創建の時期等の詳細について、日本書紀等の文献に、ほとんど姿を現しません。そして、他のお寺(薬師寺、大官大寺、飛鳥寺)が藤原京、平城京、平安京と都を移すたびに合わせて移転していったのに対し、
川原寺は唯一、飛鳥に留まりました。
それば一体なぜなのでしょうか?
川原寺は『飛鳥四大寺』に数えられるほどの大きなスケールと国家事業としての写経が我が国で始めて行われたほどのお寺であるにも関わらず、その創建の理由、創建の時期等の詳細について、日本書紀等の文献に、ほとんど姿を現しません。そして、他のお寺(薬師寺、大官大寺、飛鳥寺)が藤原京、平城京、平安京と都を移すたびに合わせて移転していったのに対し、
川原寺は唯一、飛鳥に留まりました。
それば一体なぜなのでしょうか?
川原寺は『飛鳥四大寺』に数えられるほどの大きなスケールと国家事業としての写経が我が国で始めて行われたほどのお寺であるにも関わらず、その創建の理由、創建の時期等の詳細について、日本書紀等の文献に、ほとんど姿を現しません。そして、他のお寺(薬師寺、大官大寺、飛鳥寺)が藤原京、平城京、平安京と都を移すたびに合わせて移転していったのに対し、
川原寺は唯一、飛鳥に留まりました。
それば一体なぜなのでしょうか?
昭和32年から35年にかけて行われた発掘調査によって川原寺の伽藍配置は他にあまり類を見ない『1塔2金堂式』であり、北側の講堂の三方を僧坊がめぐり、その広さは東西詳細わからず(最低でも150m)、南北およそ300mを誇っていたことがわかりました。今もその大きさは現地に復元された礎石を辿ることで実感することができます。
日本最古の大仏『飛鳥大仏』や広大な敷地を誇った飛鳥寺と肩を並べるその広大な寺院では、当時数々の祭事が行われていました。
1.天武天皇二年三月の条
この月に書生(写経生)を集めて川原寺で一切経の写経を行った。
2.朱鳥元年四月の条
新羅の使節を賓客として迎えるために、伎楽団を筑紫国に遣わした。
3.朱鳥元年五月の条
天皇は病が重くなりその平癒のために薬師経を唱えた。
4.朱鳥元年九月の条
親王以下諸臣に至るまでことごとく川原寺に集まり、天皇の病の平癒のために清雅を行った等々…
ところがその後の記録がどんどん減ってゆき、幾度の焼失を経験し、室町末期には廃寺となり、弘福寺にその法灯を継いだとされています。
いったい何があったのでしょうか?
昭和32年から35年にかけて行われた発掘調査によって川原寺の伽藍配置は他にあまり類を見ない『1塔2金堂式』であり、北側の講堂の三方を僧坊がめぐり、その広さは東西詳細わからず(最低でも150m)、南北およそ300mを誇っていたことがわかりました。今もその大きさは現地に復元された礎石を辿ることで実感することができます。
日本最古の大仏『飛鳥大仏』や広大な敷地を誇った飛鳥寺と肩を並べるその広大な寺院では、当時数々の祭事が行われていました。
1.天武天皇二年三月の条
この月に書生(写経生)を集めて川原寺で一切経の写経を行った。
2.朱鳥元年四月の条
新羅の使節を賓客として迎えるために、伎楽団を筑紫国に遣わした。
3.朱鳥元年五月の条
天皇は病が重くなりその平癒のために薬師経を唱えた。
4.朱鳥元年九月の条
親王以下諸臣に至るまでことごとく川原寺に集まり、天皇の病の平癒のために清雅を行った等々…
ところがその後の記録がどんどん減ってゆき、幾度の焼失を経験し、室町末期には廃寺となり、弘福寺にその法灯を継いだとされています。
いったい何があったのでしょうか?
どうやら、川原寺には当時の大和朝廷の要人たちの熱い思いが込められているようです。中でも女性天皇である斉明天皇の存在が。斉明天皇の子供である天智天皇と天智天皇の弟と言われている天武天皇が、母である斉明天皇のために創り、盛り上げていたのではないか… そもそもこの地は斉明天皇の仮宮「川原宮」のあった場所。その上に川原寺は建てられているのです。
飛鳥時代のこの地は 日本の政治のど真ん中であり、東アジア圏と隣り合わせの、かなり進んだ国際社会でした。おそらく古代中国語、朝鮮語、そして日本語が混在する社会。そこで海外の情勢を肌で感じながら国を統一していかないといけない若者たちの苦悩と様々な思惑の中、建てられたのが川原寺なのです。
その苦悩と思惑の代表が西暦645年に起きた乙巳の変です。当時の政治を牛耳っていた蘇我入鹿を暗殺し律令国家としての道を歩み始めたきっかけのクーデター。川原寺はその歴史の舞台をまさに見下ろす場所にあります。蘇我氏の本拠地があったとされる甘樫丘南側とクーデターの舞台飛鳥板蓋宮跡の距離感を想像することで、クーデター当時の緊張感も想像できます。
極めて少ない記録の中から当時をイメージしたり、広大な遺構を歩きながら川原寺の大きさを実感したり、瑪瑙の礎石に実際に触れることで飛鳥時代に思いを馳せたり、川原寺に関する様々な謎に触れながら、明日香のワクワクを感じていただけたら…
昭和49年、川原寺の境内、北側の山肌から千数百体の三尊塼仏(塑像・レリーフ状の板に彫られた仏様)が出土しています。一説では創建時の中金堂の壁一面をそれらの塼仏が埋め尽くしていたのでは、と言われています。お堂の壁一面に仏さまがいらっしゃる、いったいどんな光景なのでしょう。
なぜ、川原寺にだけそのような仏様が大量の存在したのでしょうか?
どうやら、川原寺には当時の大和朝廷の要人たちの熱い思いが込められているようです。中でも女性天皇である斉明天皇の存在が。斉明天皇の子供である天智天皇と天智天皇の弟と言われている天武天皇が、母である斉明天皇のために創り、盛り上げていたのではないか… そもそもこの地は斉明天皇の仮宮「川原宮」のあった場所。その上に川原寺は建てられているのです。
飛鳥時代のこの地は 日本の政治のど真ん中であり、東アジア圏と隣り合わせの、かなり進んだ国際社会でした。おそらく古代中国語、朝鮮語、そして日本語が混在する社会。そこで海外の情勢を肌で感じながら国を統一していかないといけない若者たちの苦悩と様々な思惑の中、建てられたのが川原寺なのです。
その苦悩と思惑の代表が西暦645年に起きた乙巳の変です。当時の政治を牛耳っていた蘇我入鹿を暗殺し律令国家としての道を歩み始めたきっかけのクーデター。川原寺はその歴史の舞台をまさに見下ろす場所にあります。蘇我氏の本拠地があったとされる甘樫丘南側とクーデターの舞台飛鳥板蓋宮跡の距離感を想像することで、クーデター当時の緊張感も想像できます。
極めて少ない記録の中から当時をイメージしたり、広大な遺構を歩きながら川原寺の大きさを実感したり、瑪瑙の礎石に実際に触れることで飛鳥時代に思いを馳せたり、川原寺に関する様々な謎に触れながら、明日香のワクワクを感じていただけたら…